「義理と人情の板挟み」は、本当に「板挟み」か?・・・・・・2006年11月号■人間心理研究■ [ザ・ピンチ・コード2006年]
。。。。。。成績の振るわないまま、
2月1日の受験日の朝を迎えた。
端から、
勝ち負けが判っていれば、
敢えて挑戦することなど、
自分には、あるはずもない。
人生も、
一定の時季を過ぎれば、▼分をわきまえる
ようになる。
。。。。。。しかし、敢えて行くには及ばない
という時でも、
▼「義理と人情の板挟みになる」
といった状況があれば、
敢えて臨む
ということもあるだろう。
「参加することに意義がある!」
「一応、やるだけ、やってみよう!!」
「周囲の応援に、できるだけ応えよう!!!」
など
といった心境になる。
「バブル崩壊」ののち、忘れがちになり、口に出されることの少なくなった
「義理・人情」
という言葉であるが、
この概念は、人を大きく動かすし、人間に原動力
を与える。
「義理・人情」というと、むずかしいが、
簡単に言い換えれば、
▼相手の立場を慮って、あくまで相手を窮地に追い遣らないように、思い遣り振舞う
ことである。
開成中学の出願の日、頑固な親父は、
徹夜で並ぶといった不合理なことまでは
しなかったが、
夜明けの始発列車で、現地に出向いてくれた。
ここに、「義理・人情」が発生したのだ。
ほんの12歳だから、
「義理・人情」という言葉、そして、その真意
も、解るはずもなかったが、
このとき、
親父が一生懸命である ということだけは、目に映った。
。。。ボクが、「負け試合」を承知で闘いに挑まざるを得なくなった理由は、それだけ
である。
相手が、一生懸命なら、
親が、一生懸命なら、
「義理・人情」を感じるのが
ふつう であろう。
「義理・人情」は、▼「火事場のばか力」
を生むことがある。。。。。。わたしの経験では、10年か20年に一度ぐらいしかないことでは
あると思うが。。。
この「ばか力」が、非行やイジメや自殺
といったものに、
向かってしまった場合には、、、、、、不運
としか言いようがない。
それさえ避けるように、親が、周囲が、気配り
をしてあげれば、
「一所懸命の姿」は、子供に「活きる原動力」
を間違えなく与える。。。。。。しかしながら、
親の期待した時季に、この「原動力」や「ばか力」が発生するとは、限らない。。。。。。「他者への不当な期待」は、
= 「義理・人情」を欠く行為
であり、
せっかくの▼「青き原動力」
を打ち消す
結果になるからである。
「力」を出すのは本人であり、▼その本人すらも、「力」の湧く源、時季、所以が、わからない
ことも多い。「力」の湧いたときは、人生の又と無いチャンスであると、思うがよい。。。
@井川治久(早稲田大学・第一文学部OB作家・英語講師。著者。43歳)2006年11月13日(1:55)
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